童謡『赤い靴』等を作詞!北茨城市歴史民俗資料館を紹介します(野口雨情編)
どうもみなさまこんばんは^^
さて、前回は磯原温泉の観光スポットとして北茨城市歴史民俗資料館について紹介しました!
北茨城市が有名な童謡作詞家・野口雨情の出身地であることにちなみ、野口雨情記念館として様々な展示やグッズの販売等を実施していることについて触れましたが、今回はせっかくなので野口雨情という人物について、もう少し詳しく紹介していくこととしましょう(^^♪
それでは野口雨情編、いざスタートです!

か~ら~す~なぜなくの~♪
誰もが知っている『七つの子』や『赤い靴』などの童謡を作詞した野口雨情。
それでは、早速彼の生い立ちについて簡単に紹介していくこととしましょう(^^ゞ
~野口雨情の生い立ちについて~
野口雨情は、明治15年(1882年)5月29日、廻船問屋を営む父・量平の長男として茨城県多賀郡磯原村(=現在の北茨城市)に生まれました。
本名・野口英吉。父は地元の名家でもあり、村で村長を務めた経歴もあるほどの人望家だったそうです。
今でこそ冒頭で紹介した『七つの子』や『赤い靴』、『シャボン玉』や『あの町この町』等、枚挙に暇がないほど数々の有名な童謡を作詞し、後世に残した野口雨情ですが、彼の詩作活動は当初は順調なものではありませんでした。
明治30年(1897年)、東京へ上京後、東京専門学校(=現在の早稲田大学)に入学するも、1年余で中退してしまった野口雨情は、この頃より詩作活動に取り組み始めました。
父の死を受け、家督を継ぐべく地元へ帰郷した野口雨情は、水戸から処女詩集『枯草』を自費出版するものの世間からの反響は得られず不発に終わりました。
後に、彼は相馬御風、人見東名、加藤介春、三木露風らと共に早稲田詩社を結成しましたが、この頃より次第に詩作活動から遠ざかるようになり、北海道で新聞記者として活動していた頃には、歌人・石川啄木と机を並べて働いていたこともあるそうです。
大正4年(1915年)、それまで東京と地元を転々としていた野口雨情は、いわき湯本温泉にあった『柏屋』を訪れ、そのまま3年半居候することになります。
この頃から詩作活動を再開し、大正8年(1919年)には『都会と田園』で詩壇復帰を果たします。
また、同じ頃、『枯れすすき』という題名(=後の『船頭小唄』)で童謡を作詞し、中山晋平に作曲を依頼したところ、これが大きな反響を呼びました。
大正10年(1921年)には『七つの子』や『赤い靴』、『青い目の人形』など、今尚私達の良く知る著名な童謡を次々作詞・発表し、その後は全国各地を飛び回り、童謡・民謡普及の活動に力を尽くしました。
昭和18年(1943年)、病に倒れた野口雨情は、昭和19年(1944年)には戦火を逃れる為に疎開し、宇都宮に転居して療養生活を営んでいましたが、昭和20年(1945年)1月27日に永眠、享年は63歳でした...
以上が野口雨情の生い立ちになります~(^^
次回は、北茨城市歴史民俗資料館のすぐ近くに今も尚保存されている野口雨情の生家について紹介したいと思いますので、よろしくお願いします!
≪北茨城市歴史民俗資料館 基本情報≫
所在地:茨城県北茨城市磯原町磯原130-1
開館時間:9時~16時半(※最終入館は16時)
休館日:月曜日(※祝・祭日の場合は翌日)、12月29日~1月1日
入館料:一般310円、学生(大学、専門学校、高校生)100円、中学生以下無料
交通アクセス 【電車】 JR磯原駅より徒歩約20分
【車】 常磐道北茨城ICより県道22号線/国道6号線など約3km
直近取材日:2013/12/1
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さて、前回は磯原温泉の観光スポットとして北茨城市歴史民俗資料館について紹介しました!
北茨城市が有名な童謡作詞家・野口雨情の出身地であることにちなみ、野口雨情記念館として様々な展示やグッズの販売等を実施していることについて触れましたが、今回はせっかくなので野口雨情という人物について、もう少し詳しく紹介していくこととしましょう(^^♪
それでは野口雨情編、いざスタートです!

か~ら~す~なぜなくの~♪
誰もが知っている『七つの子』や『赤い靴』などの童謡を作詞した野口雨情。
それでは、早速彼の生い立ちについて簡単に紹介していくこととしましょう(^^ゞ
~野口雨情の生い立ちについて~
野口雨情は、明治15年(1882年)5月29日、廻船問屋を営む父・量平の長男として茨城県多賀郡磯原村(=現在の北茨城市)に生まれました。
本名・野口英吉。父は地元の名家でもあり、村で村長を務めた経歴もあるほどの人望家だったそうです。
今でこそ冒頭で紹介した『七つの子』や『赤い靴』、『シャボン玉』や『あの町この町』等、枚挙に暇がないほど数々の有名な童謡を作詞し、後世に残した野口雨情ですが、彼の詩作活動は当初は順調なものではありませんでした。
明治30年(1897年)、東京へ上京後、東京専門学校(=現在の早稲田大学)に入学するも、1年余で中退してしまった野口雨情は、この頃より詩作活動に取り組み始めました。
父の死を受け、家督を継ぐべく地元へ帰郷した野口雨情は、水戸から処女詩集『枯草』を自費出版するものの世間からの反響は得られず不発に終わりました。
後に、彼は相馬御風、人見東名、加藤介春、三木露風らと共に早稲田詩社を結成しましたが、この頃より次第に詩作活動から遠ざかるようになり、北海道で新聞記者として活動していた頃には、歌人・石川啄木と机を並べて働いていたこともあるそうです。
大正4年(1915年)、それまで東京と地元を転々としていた野口雨情は、いわき湯本温泉にあった『柏屋』を訪れ、そのまま3年半居候することになります。
この頃から詩作活動を再開し、大正8年(1919年)には『都会と田園』で詩壇復帰を果たします。
また、同じ頃、『枯れすすき』という題名(=後の『船頭小唄』)で童謡を作詞し、中山晋平に作曲を依頼したところ、これが大きな反響を呼びました。
大正10年(1921年)には『七つの子』や『赤い靴』、『青い目の人形』など、今尚私達の良く知る著名な童謡を次々作詞・発表し、その後は全国各地を飛び回り、童謡・民謡普及の活動に力を尽くしました。
昭和18年(1943年)、病に倒れた野口雨情は、昭和19年(1944年)には戦火を逃れる為に疎開し、宇都宮に転居して療養生活を営んでいましたが、昭和20年(1945年)1月27日に永眠、享年は63歳でした...
以上が野口雨情の生い立ちになります~(^^
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≪北茨城市歴史民俗資料館 基本情報≫
所在地:茨城県北茨城市磯原町磯原130-1
開館時間:9時~16時半(※最終入館は16時)
休館日:月曜日(※祝・祭日の場合は翌日)、12月29日~1月1日
入館料:一般310円、学生(大学、専門学校、高校生)100円、中学生以下無料
交通アクセス 【電車】 JR磯原駅より徒歩約20分
【車】 常磐道北茨城ICより県道22号線/国道6号線など約3km
直近取材日:2013/12/1
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